時事ネタということで、大逆事件100周年に絡んだ内容を書かせていただきました。
小川芋銭と竹久夢二による約100年前の社会主義誌の漫画が、21世紀の全国紙にも掲載されるなんて、不思議な感慨を覚えます。
実は、拙稿博論の第1章の要約めいた内容であり、また、最近考えている「可能性としてのアヴァンギャルド」についてのエッセイでもあります。
最近考えているのは、こういうパラドックスです。
すでに歴史的存在としてアカデミズムに公認されたアヴァンギャルドの歴史をなぞることよりも、アヴァンギャルドとはまだ認められていないけれどもアヴァンギャルド「かもしれない」ものたちの歴史を開拓する方にこそ、アヴァンギャルドがあるのではないか。なぜなら、公認というものほどアヴァンギャルドにとって似つかわしくないものはないのだから。
さらに、そういう「かもしれない」アヴァンギャルドたちは、アヴァンギャルドとしての条件不足であり、アヴァンギャルドと非-アヴァンギャルドの中間領域に位置していながら、しかしアヴァンギャルドというものを問い返す点において、公認されたアヴァンギャルドよりもずっとアヴァンギャルドらしいところもあるといえるだろう。
*追記2012年1月12日:髪が少し長かった頃の写真が恥ずかしいけれど、拙著の宣伝として、ここにアップします*