以下、20年以上前の古い雑誌の記事から一部を抜き書き。著者は今もお元気でいらっしゃる。
ヨーロッパで近代批評を確立したのは、18世紀のドニ・ディドロあたりからだといわれる。日本ではもち論、佐野常民やワグネルのような美術行政者や啓蒙者も忘れられないが、明治10年代の岡倉天心、フェノロサがあり、観古美術会や龍池会といった骨董古器の鑑賞論議の活撥化を経て、20年代になって国粋主義、古典主義へのまきかえしのように、俄に発達したのが西洋画紹介と西欧追随型の評論家の輩出であった。当時の評論関係者の社会的地位は高く、貴族院議員、枢密顧問官、東京帝室博物館の要職にある者や帝大教授、著名文学者といったひと達とならんで、新聞記者や雑誌『国華』(岡倉天心が創刊)の主幹などが多く目立つのも、美術評論がはじめからジャーナリズムの発達とともに生まれ、権威を通して番付表をつくることと、啓蒙精神によって生まれ育まれたことを証していよう。そしてこの構造と体質は、現代に到るまで、基本的なところでは変っちゃいないのである。
こういうエリート体質的、価値を決定する力を掌中に握っているというおもいあがりが、権力構造のなかで次第に育まれるとしたら不幸なことだ。評論家のほんの一部であろうが、生臭い噂がたちこめたりするのは、批評の本質とはなんの関係もないことである。
正統な報酬は当然なことだが、イメージ、方法はつねにあたらしさを求めるのに、機構そのものは芸術のすべてのジャンルのなかで、多分もっとも古い体質を温存するこの業界では、報酬の基準もすこぶる曖昧で、一方では信じがたい巨額の作品や経費がうごく渦中にいるために、経済観念がかなりとぼしいという実例は、わたしなどでもいくつか目撃してきた。不正行為ではなくとも、わたしを含めて自戒すべきだ。わたし自身も、評論家という名を利用されたことで、金が動いたために、親しい友人と交際を断つ結果となり、その友人の名をいうわけにゆかぬために、疑いの渦中にまきこまれたかなしむべき体験をもっているのだ。評論のもつ権威と、評論家の権力とやらいうものは、どんな意味でもとりちがえてはならないだろう。
最近ではここに、企業のイメージ戦略とか文化戦略(なんとまぁ、艶のない軍隊用語の氾濫よ)とかいう「布陣」の拡大にともなって、評論家が「参謀本部付」になるという、あたらしい権力構造も加わった。隠微な主導権あらそいが、底流の水まで汚さぬことを希うが、すくなくとも大画商の入口から入って、なにやら密談ののちに、裏口から出て行くような、かつての生臭い噂のイメージも、企業経営の美術館やデパートのあかるい光のなかでとりおこなわれるようで、まずは目出度い。せいぜいシャンデリアが落ちてこないよう祈るのみです。
しかし実際には、先ほどいったみたいに、報酬も曖昧、どころか支払われずのことさえあり、あるいは他の文化領域のギャランティとは比較にならぬほど廉い報酬に甘んじねばならず、評論家という「肩書」の権威だけと、パーティの二日酔だけがのこっているようなのが実情でしょう。すくなくとも、わたしの実感だ。こうしたことが、もっときっちりシステム化しないかぎり、根も葉もない噂さえつけられて生臭いにおいを撒き散らす。(51-54頁)